銀座松屋で開催中の高橋留美子展を観てきました。
日曜日とあって、大入り。観るのに体力がいります。
「うる星やつら」「めぞん一刻」「らんま1/2」「犬夜叉」のカラー作品を中心に展示。開催側の趣味なのか、「めぞん一刻」は特別扱いで、惣一郎さんの犬小屋があったり、五代の部屋が作られてました。
観ていて思ったのですがやはり、漫画は印刷芸術なので、印刷したときに美しく見えることを大前提として描かれています。
そういえば、先日、対決展に行ったときに、こう書いた。
技術的なことはよくわからないが、墨で書かれた日本画って、描き直しがきかないのではないかな。たとえば油絵であれば、上から絵の具を重ねていけばどんどん描き直せるし、絵に厚みが出て逆によくなるというもの。対して、若冲のような描き方では、一度書いた線は消せない。アンドゥはできないし、リドゥなんてもっと無理だ。一筆入魂である。印刷芸術である漫画では、ホワイトが使える。どういう風に直しているかも含めて、観ていて面白い。
展示の最後に、My Lumという企画があって、有名な漫画家さん達がラムちゃんの絵を描いている。岡の気になるところをあげても、あだち充、青山剛昌、吉崎観音、あずまきよひこ、羽海野チカ、久米田康治、いとうのいぢ、安野モヨコ…、順不同…。
いやいや、これだけでも観に行く価値があるのでは。
ずっと高橋留美子さんの絵を見てきて、最後にいとうのいぢさんあたりが出てくると、あれ?と思ってしまう。どうやって描いているんだろう…、と一瞬。
そう、まさか手で紙に描いているわけはないのである。コンピュータで描いている。だから、ホワイトではなく、アンドゥなのである。印刷芸術なのだから、実態がなくなるというのは正当進化だ。座標(A,B)に色(R,G,B)が乗っているというのが絵なのだった。
するとこの先、漫画家の個展というものがなくなってしまうかも知れない。リトグラフにプリントされた絵を展示会で観る場合、果たして観ているは作家の腕なのか、プリンタの性能なのか…。
それからもう一つ。
飾られた絵を観に行くのだけれど、観ているのは単純な絵とは全く異なる。たとえば、「モナ・リザ」などという正体不明の何かを観るのとは違うのである。そこに描かれているのは、「ラムちゃん」であり、「音無響子さん」であって、会場の全員がそのバックにある物語や、描かれているキャラクタの正確というものを承知しているという点がもの凄い。共通認識として持っている「ラムちゃん」という"なにがしかのもの"があり(昔の哲学者はイデアといったかも知れない)、その上に絵を観ているのである。その、"なにがしかのもの"を形成しているのは、漫画という表現にふれていた時間である。コミックス何十巻、何千ページという共有した時間があって、読者が諸星家に存在し、物語に立ち会っていたからこそ、観ていて楽しいのだ。それは、読者が、高橋留美子の脳の中で遊んだ時間である。それがなければ、My Lumなどと言うことはあり得ない。Myモナ・リザなどはない。それをやると模写にしかならない。
また、漫画は生活に密着した表現なので、うる星やつらを読んでいた頃ボクは…、とまるで昔のスナップ写真を見るような楽しみもあるだろう。
5歳くらいの女の子を連れてきたお父さんが「ほら、惣一郎さんの家だよ!」などとやっていたが、子供は全く興味なしなのだ。当たり前である。惣一郎さんという"なにがしか"を共有していないその子にとっては、ただの作り物の犬小屋に過ぎない。展示されている絵も全て、なんだか漫画っぽいものが描かれているものであって、全くつまらない。早く帰りたくて泣いているのだ。しかし、犬夜叉コーナにくると大はしゃぎ。そして、じっと1枚の絵を眺めていた。その子にとっては、犬夜叉とアニメの中で過ごした時間があって、犬夜叉の"なにがしか"を持っているのだ。それを見ている絵にトレースしているから楽しいのだろう。
考えてみれば、芸術というのは何でもそうで、背景があってこその表現なのである。目の前にぽんと放り出された作品を本当の意味で楽しむことは出来ない。いつ、誰が、どういう状況で、それをなしたのか。そういった知識が芸術鑑賞の必須アイテムなのである。
美術館やコンサートには、予習してから行こう。
ラベル: Diary